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 あの人・この人 (第3回)


高木俊宜氏 私のプロフィール

たかぎ としのり
高木 俊宜

(学校法人鶴学園 広島工業大学総長)


岩国市の出身。厳密には山口県玖珂郡岩国町錦見です。

岩国尋常高等小学校(当時)、岩国中学校(現、岩国高校)、広島高等学校(旧制、現、広島大学)、京都帝国大学(私達が最後の帝国大学卒業生、このあと新制度に移行)、引き続き大学院特別研究生前期(現在の修士課程。当時は極く限られた人数を教育・研究要員として1学科で1〜3名採用、給料も支給された。一般には後期課程まで行って助手になる)を終了した。

残念ながら父が終戦後死去したのと戦後の食糧難、インフレには勝てず研究生活をあきらめて産業界へ。

神戸工業(株)(現、富士通)入社、戦後、我が国が最も遅れていたマイクロ波送信管、マイクロ波通信技術の開発に従事。戦中、レーダー用の200MHzの真空管(何のことはない今の12チャンネル帯)製作に苦労していた我が国に対し、米国は時の大統領が東海岸から西海岸へ2600MHzのマイクロ波通信網を使って勝利宣言を行った程の技術差があった。後年、世界のマイクロ波通信網システムを殆ど受注する程の力を我が国がつけたことは周知の通り。

米国との技術提携のもとに、航空管制用の大電力マイクロ波送信管(1300MHz、パルス出力5MW、大きさは我々の背丈位、価格は昭和30年代320万円、真空管というより真空装置)の開発と生産化に成功し、製造課長として昼夜兼行で働いた。その技術成果をもとに工学博士の学位も授与された(京都大学創立以来964人目の工学博士であった)。当時、若くして、しかも、エレクトロニクスの分野で学位を持っている者は関西には極めて少なかった。

旧制広島高校在学中の個人指導教官が鈴木正利教授(のちに広島大学の教授、退官後、広島工業大学創設に鶴理事長のもとに参画、広島工業大学教授。ベーブの愛称で広工大同期生の中にもご存知の方が多い)。

その鈴木先生から「4年制の工業大学を作るから手伝え」との話があり鶴理事長先生にお会いしたのが広工大とのご縁のはじまりである。設立準備のお手伝いをし、昭和38年4月広島工業大学が誕生し、私も製造課長兼務のまま教授となった。

昭和40年、突然、母校の京都大学電子工学科から教授として帰って来るようにとの話である。助手、助教授の経験なしで、40才で教授として母校へ帰り、広工大の教授は辞することになった(電子・電気工学卒業生の皆さんには講義をする機会に恵まれた)。

その後も郷里の墓参りに帰った時など理事長先生のお人柄に引かれて大学へ立寄りお話を承るのが楽しみであった。

さて、京大へ帰って、大電力マイクロ波管からマイクロ波半導体素子へと研究分野を拡げ、真空管と半導体、製造と研究という異質の経験・知識が一つの頭の中でウイスキーよろしくブレンドされ、「イオン工学」という言葉を作ってイオン工学技術体系作りを提唱し、塊状原子集団(クラスター)を断熱膨張による過冷却現象を用いて作りこれをイオン化してクラスターイオンビーム(ICB)技術を開発した。

蒸着・薄膜形成、結晶成長、新材料創製を行う独創的技術で昭和47(1972)年ウィーンの国際会議で発表。漸く世界に認められ今は各国で研究されている。

この業績によって京都大学本部構内に工学部附属イオン工学実験施設が昭和53年4月誕生。施設長に就任。昭和63年3月停年退官し名誉教授となる。

これよりさき、つくば研究学園都市に対応して関西学研都市建設の構想が持ち上がり78億円かけてイオン工学センター、研究所が第3セクターとして停年の年の11月に創立され、代表取締役センター副社長、研究所所長に就任(2年間で副社長を辞し研究所長に専念)。平成6年念願の黒字経営となったのを機に平成9年6月退任した。

たしか株主総会の翌日だったと思うが珍しく鶴理事長から連絡があり、鶴学園とりわけ大学のこれからの進め方について舵取りを手伝えとのお話。休む間もなく総長として、お世話になっているというのが私の歩んで来た道です。よろしくお願いします。

高木氏スナップ
科学技術庁(当時)の第13号答申として「インテリジェント材料」の概念構築を航空・電子等技術審議会材料部会長として作成し世界に発信した。国際会議を日本から発足させ(1992)、アメリカ、フランスを経て再び日本に帰ってきたときのスナップ。


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