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 OBだより (第29回) 2002.05.08


(のぐち・けんじろう)
野口 賢二郎 さん
(株)東洋高圧 勤務
(昭和45年(1970年)電子工学科 卒業)
野口 賢二郎さん


振り返って

昨年のテロ事件を初め、米国経済の減速による景気の一段の悪化、狂牛病問題等、昨年はわが国の長年の膿が一斉に吹き出したような厳しい一年でした。世界は混沌とし不景気の渦がまいています。

小泉首相は、日本の構造改革なくして景気の回復なしと人頭指揮をとっておられます。
こんな中で自分を振り返る機会を与えられた事は感謝であり、筆べたの私がどこまで書けるか分りませんが、自分の人生を思いつくまま書いてみます。

私自身は昭和40年電子工学科に入学し卒業までアルバイト三昧の生活をしていました。見開を広める為アメリカ留学を夢見、岩国の米軍基地に英語を習いに行ったり、アルバイトをしてお金を貯めていました。

チャンスを得て3年の時、当時移民船であった「さくら丸」で200ドルを持ちアメリカのロサンゼルスに渡りました。

留学する積もりでロスに着き、UCLA(カリフォルニア大学)に受験に行きましたが語学力が不足しているとの事で断られ、そうしているうちに所持金も無くなり、親は帰って来いと言うし、このまま帰ったのではアメリカまで釆た価値も無いし、悩んでいました。

そこで色々なアルバイトをして(ガーデナー、ジャニター、コック、ハウスキーバー)等で小金を貯め、当時1ドルが360円の時代でしたから結構なお金になり、それを元手に
世界53カ国無銭旅行をして廻りました。

日本人で海外に出ている人が少なかったせいか色々な有名人に会うことが出来ました。
その一人の方はもう亡くなられましたが、鹿島建設の社長で鹿島貫之助さん、日本に帰ってきたら訪ねて釆なさいと言われたし、あの石原軍団の撮影隊「栄光の5000マイル」にも出くわし、日本に帰って釆たら軍団に入るよう進められたりもしました。(笑い)

その他、川端康成、田宮二郎、大宅荘一、勝新太郎、柴田練三郎、小田実、ボクシングの西城さん等、本当に色々な有名人との出会いがありました。

勿論、旅行中は野宿は当たり前、警察に泊めて貰い服を取られたり、インドでは乞食のグループに入り一緒に乞食をしたりしていました。

無銭旅行で得た事は、今後何をしてでも食べていけると思えたことです。今でも苦しい時は当時の事が後ろ盾になっています。

いまだに旅が好きで少し行かないとムズムズしてきます。

就職は大阪のヤマト産業(株)圧力機器メーカーで研究開発課に勤務しました。

量産品を作る会社でしたが、他社から特殊品の依頼があると私どもが対応するのです。先方の要求される事をそのまま現場に流しても、なかなか理解して貰えず噛み砕いて現場に流せれば、仕事として商売になるのではないかと思い、思い切って28歳の時独立しました。

当時1970年代は欧米に追いつけ追い越せで世の中も右肩上がりで急成長中、各会社も設備投資が盛んな時でしたが、基礎研究に対する認識は低い時代でした。当時はまだ、いろいろなデータをアメリカから敢えてもらえていました。

ところがその後、アメリカは徐々に基礎研究のデータを教えることを控えるようになって、日本も自前で基礎研究をしなくてはいけない状況になってきました。弊社はそういう時流にたまたま乗ることが出来ました。

独立当初は特殊金属の加工を手がけていましたが、直ぐに実験用化学プラント、高圧機器の設計、製作、販売、の仕事も手がけるようになり現在に至っています。

最初は賃貸事務所を借り、一人で始めました。なかなか仕事が無く賃貸事務所は勿体ないからと知り合いのマンションの一室で営業をしていました。

そうしているうちにぼつぼつと仕事が舞い込むようになり、小さいながら二階建を購入し、一階を工場、二階を事務所にしてやっと「仕事が見える」と信用して頂けるようになりました。だんだんと手狭になり、写真にある建屋で5回目です。

現在の弊社の内容を一言で言うと一品一様の製品の設計、製作、販売、の会社で、各研究所と機密保持契約を結び(全国で約55社)、打ち合わせに入ります。

「同業他社」と呼べるような企業は、日本全国を見渡しても他に3社しか存在しません。例えば、ある程度の規模の大きな化学プラントを建設しようとした場合、机上の設計図からいきなり実際の大きなプラントを造り出すには多分に無理があります。

設計図通りに製作して、果たして計画通りに稼動してくれるかどうか、モノが大きなだけに、そんなリスクを背負うことは出来ません。

そこでテストプラントの需要が発生します。平たく言えば、テストプラントとは「本プラントのミニチュア」のようなもの。プラントの一部の構造を、サイズだけを小さく縮めたものです。実際それを動かしてみて、本番に備えたデーター・情報を集める装置の事です。

勿論、1つ1つの試験装置は本番のプラントに合わせた「オーダーメイド」になります。一品一様の不安定な市場よりリピートできるヒット商品が出来ればと、5年前より商品の開発を考え、自動生カニ足皮むき装置、一分間スパゲティ湯で機、魚定量カット機等、随分の商品を開発しましたが売れ具合はもうひとつでした。

最近では一例を取り上げると主力製品である超臨界抽出装置を使用し、政府開発援助(ODA)の一環として進行しているトンガモズクを輸入し「フコイダン」と言う抗がん物質を抽出しています。又1994年には科学技術庁より発明大賞福田特別賞、1996年科学技術庁長官より注目発明賞、2000年ニュービジネス大賞特別賞を受賞しました。そして、昨年12月28日には当大学の学長である櫻井春輔氏、広島大学学長、広島県知事、中国経済産業局長、ニュービジネス協議会会長、パブコック日立(株)取締役と私とで「産学官連携を考える」と言うシンポジウムに出させて項きました。

社会に認められここまで来れたのは、なんと言っても、応援して下さる皆々様のお陰であり、それぞれの分野で責任を持ちスペシャリストとして一生懸命頑張ってくれている従業員1人1人の力の賜物です。本当に感謝しています。

弊社はこれからも、地域社会に貢献できる企業であり続けたいと願っています。

最後になりましたが、諸先生方々、同窓生の皆さん並びに母校の更なる発展を心より願って筆を置きます。


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