ホーム > OBだより >
 OBだより (第40回) 2003.10.04


(ひがき・まこと)
檜垣 誠 さん

株式会社フローリック
技術本部 西日本技術センター勤務

(昭和61年(1986年)土木工学科 卒業)


「17年前と現在」

日本国中が沸いたサッカーワールドカップの熱風が過ぎ去り、長期の経済停滞による企業倒産が相次ぎ、自分の将来像が描きにくくなっている昨今ですが、それでも何とか新世紀三年目を元気に迎えることが出来ました。気が付けば今年でもう40歳、広島工業大学を卒業して17年が経とうとしています。


○まずは自己紹介

学生番号は574112だったと思います。氏名は檜垣 誠です。ヒガキと読んで下さい。実は学生当時、山田誠でしたが、婚姻により名字が変わりました。いわゆる婿養子です。家族構成は妻一人(あたり前)、息子一人(なんとか一人出来ました)です。


○17年前の私

学生時代の私と言えば、クラブ活動はせず、取り敢えず朝はきちんと学校に行き授業はまじめに受けていたつもりでしたが、構造力学は特に苦手で、当時構造力学の中山先生に、これだけ授業に出て落とす人は珍しいと言われました。要はまじめに授業を受けてなかったんでしょう。授業が終われば行きつけのパチンコ屋に直行してひたすら引き落としのできない貯金を続け、夜は中国語のお勉強です(ポン、チー、ロン、満貫!)。週末は学生の分際でボトルキープをした店まで持っていてよく飲みにも行きました。親のすねをとことん噛りまくるとんでもない学生です。

しかし、今の自分から思えばかなり羨ましい生活です。就職も決まり卒業を前に一応いろいろな夢、希望を一丁前にふくらませていました。私は土木工学科卒業なので、自分はどんな橋の建設工事に係わるであろうか、自分はどんなダム工事に係わるであろうか、などなど。

ところが、自分が勤務した会社は、コンクリートの中に入れる減水剤と呼ばれる薬剤(コンクリート用化学混和剤と言う)を販売する会社で(入社当時の社名はサンフロー株式会社)、橋やダム、一般建築物などに使われるコンクリートの1m3中にわずか1%程度しか使用しない材料メーカーで、でっかい夢のわりには、細かい仕事をするように思えてがっかりした記憶があります。学業成績は不明、取り敢えず卒業できた事に、ひたすら大学関係者に感謝しております。

就職して最初の勤務地は埼玉県東松山市でした。生まれて初めて関東に行く私にとって、埼玉県には海が無く、夕日も畑に沈み、なんて所に釆たんだと、毎日、枕を涙で濡らしていました(うそ)。

実際の業務は、販売会社でありながら、幸運(?)にも、技術部門のしかも研究所に配属となりました。日夜、コンクリート用化学混和剤の開発と研究を行っていましたが、当時の上司は私以上に忍耐力のある人でした。なんせ、将来、化けるか化けないかわからない若造を我慢強く使い続けて頂いたからです。私の上司の口癖は、「お前らひよっこは何でもやれ! それが間違いだとしてもとにかくやれ! 今のうちに恥をかけ!」でした(なんていい上司だったんでしょう)。ノーベル賞を受賞された田中耕一さんは、間違った試薬を使用して、その結果がノーベル賞に結びついたと報道されていましたが、入社当時の私は、田中さん以上に間違い、失敗の連続だったはずです。でもノーベル賞どころか社内表彰すらありません(あたりまえだ!)。

以上の通り17年前の私は、良く言えば明朗快活、悪く言えばパッパラパー人間(何を考えているのか解らない人)でした。


○現在の私

平成12年4月1日より、転勤で山口県岩国市に異動となり現在に至っています。近年の建設工事は、多種多様な工法および新材料が多く使用され、新工法においては技術力が、また、新材料においては高性能化が益々進んでいます。そんな中、当社は、地方の顧客(主に西日本地区)に対してもスピーディな対応が出来るようにと、新設の技術部署を作りその担当者になりました。

久しぶりに戻って来た広島、岩国の印象は、17年前の私のいた時とほとんど変わっていない、と言うのが第一印象でした。強いて言えば、ビッグアーチとアストラムライン、そして宇品あたりの高速道路でしょうか(本当はもっとあるんでしょうが)。地方都市の代表的な街でありながら、変わらぬ街を見て安心する反面、交通基盤の整備が大都市より遅れているのを見ると、建設関係の仕事に従事している者としてちょっとがっかりもしました。

現在の業務は、当社の製品であるコンクリート用化学混和剤の販売に対する技術フォローがメインですが、新しいコンクリート技術の情報収集や、それに対応した混和剤(材)の開発ならびに技術指導等を行っております。与えられた仕事は全くと言っていいほど無く、自分の足で仕事を探し、自分で仕事を作ると言う、ほとんど野放し状態です。実は今気が付いたんですが、結局は17年前とちっとも変わってないですね。は、は、は。

関東での勤務を含め今までに行ったことのあるのは、沖縄県以外の46都道府県で、海外も、韓国および台湾までその行動範囲を広げ、パスポートは成田と韓国と台湾の出国、入国のスタンプで一杯です。行った先々でおいしい食べ物を食べ、おいしい酒を飲み、必ずしも楽しい思い出ばかりではありませんが、いろんな人と出会い、技術論争をして、総合的には結構楽しくやっています。これからも、元気が一番でやっていこうと思います。


○今の工大生へ

最近、ちょくちょく工大にお邪魔しています。建設工学科の伊藤助教授の所によくお茶を飲みに行ってます。最近の工大生の印象は、静かでまじめです(我々の時は結構ひどかった)。もっと元気を出して、自己主張をして下さい。そして、地方に留まらずに、大都市で活躍してください。必ずや将来の自分の為になりますし、そこで得た物が財産となるでしょう。広島工大のネットワークをもっと全国に広げ、全国レベルになるようにお互い頑張りましょう。


○最後に

取り留めのない事を結構書いて(実際はパソコンですので、打って)しまいました。何せ、文才がありませんのでお許し下さい。最後になりましたが、同窓生の皆様、山口県岩国市近辺にお越しの際は是非お声掛け下さい。平成の大改修を行っている錦帯橋をご案内致します。50年に一度の改修工事です。二度と見られない方もおられると思います(たぶん私もそのうちの一人です)。

※「広島工業大学同窓会誌」第37号(2003年)より転載

    ↑ このページのトップへ