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 OBだより (第45回) 2007.07.31


(にしだ・けんじ)
西田 憲治 さん
(昭和54年(1979年)電気工学科 卒業)



広島工業大学の思い出(鶴襄先生との思い出)

鶴襄先生の突然の御逝去を聞き、本当にびっくりすると同時に、三十年前の大学二年生の時の私の記憶が懐かしくよみがえって来ました。

昭和五十一年、私達電気工学科二年生は、鶴襄先生、当時は総長として学園の運営を司っていらっしゃいましたが、先生の特別講義を受講する機会に恵まれました。図書館のある棟の一室で、百人余りの学生を前に熱弁を奮っておられたことが昨日の様に思い出されます。

広島電機学校に始まり、電波学校、工業高校、そして、現在二学部、大学院を擁する広島工業大学に至る二十年間の歴史について、そして、それに関わった先生の教育者、経営者としてのそれまでの歴史について熱く語って下さいました。

広島工業大学創立にあたっては、スクーターに乗って広島近辺を土地買収、資金調達、人材要請のために一日中駆けめぐられたこと、いつも同じ姿で同じ黒カバンを持って、よく銀行の方かと間違えられたと回顧されていました。また、電波学校設立準備のお話が、私にはとても印象に残っています。昭和三十年頃のお話と記憶しています。

当時は、戦後の復興もまだ充分ではなく、国内の通信施設、放送施設もまだ十分な充実ぶりとはいえない時代で、当然、広島の様な地方都市でも無線技術に通じた人材が必要となってくる時代でした。

また、海運業、遠洋漁業の充実も歴史の流れに沿って国家の課題となる。通信士の養成も必要となる。その様な理由で、広島でもこういった分野の学校の設立が必要とされる。先見の明がある鶴先生は、早速、これを実行に移されます。取り敢えずは、九州の某市に私立の電波学校がある。これを参考にしようと夜行列車に乗って調査に行かれる。予め調べておいた住所をもとにその場所を訪ねられた。ところが、その場所には学校というようなものは見当たらない。一般の民家が建っているばかりである。途方にくれた鶴先生、そろそろ周りは暗くなり始める。不安になり、広島に帰ろうかと駅のある方向に足を向けたところ、なんと、目の前の民家とおぼしき建物の門柱に「○○電波専門学校」の看板がありました。これを見た鶴先生は、「やれやれ、前途多難だなあ」と思うと同時に一安心されました。そして、「これを試金石として、将来は大学を作るぞ」と意気込まれた。そのことを失笑しながらも懐かしく学生達に語って下さった先生の姿が想い出されます。

先生はお話の中で「私はいつも困難にぶつかって悩み抜いても、周りの人々が親切に助けてくれ、幸せな方向に歩むことできてきた」とおっしゃっていました。

電機学校に始まり大学に至る迄、時代の流れに沿って、とは言えども、決して時代に迎合するのみではなく、終始一貫して教育のあるべき姿を信念に一生を捧げられた鶴先生の人格がよく現されていると感じました。

先日も仕事で五日市方面に寄る機会がありましたが、大学近辺で何十年も開業されている方の店で食事をしました。このご主人も広島工業大学の卒業生です。その方のおっしゃるには、鶴先生は常に他人を思いやるやさしい心の持ち主であった。昭和四十年代、全国の大学は、経営上、学生指導上数々の困難な問題を抱え、経営者は苦慮していました。広島工業大学も御多聞に漏れず、こうした問題を抱えた難破状態でありました。しかし、自らの大学のことは兎も角、広島市内の他大学の問題についてとても心配されていた様子であったと、その方は語って下さいました。

また、数年前でしたが、地元のテレビ局が広島工業大学を紹介した番組の中でインタビューに答え、「最近は、人数のみならず、他の生物の幸福についても考えるようになってきました」と語られました。

私はこれを思い出し、近年、広島工業大学に環境学部なるものができましたことは、こうした鶴先生のグローバル且つキリスト教徒としての思いやりの心が中心となっているのかと思うとともに、鶴学園の卒業生としての誇りを胸に、私のみならず、同窓生一体となり、これからの社会建設に携わらなければいけないと胸に誓いました。

これから日本は更なる少子化時代を迎え、教育分野においても多々なる課題を抱えてくると思います。広島という一地方都市において数々の困難に立ち向かい、鶴学園という大教育機関を築かれた鶴先生の思い出を記させていただきました。

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