OBだより (第48回) 2015.06.30

(にしだ・けんじ)
西田 憲治 さん


(昭和54年(1979年)電気工学科 卒業)
 

 小生、母校を卒業して36年が過ぎ、60才迄あと1年となりましたが、勧奨退職に募られ、この春、故郷の三次に帰ることとなりました。

思えば、昭和50年の入学、この年は、中島みゆき、太田裕美デビュー、およげたいやきくんの大ヒット、まだまだオイルショックの影響も残り、決して世の中明るくはありませんでしたが、希望を持って入学式にのぞみました。

大学とは遊んで暮らす所などと先輩たちから悪知恵を注がれ呑気に構えていたのが間違いのもと。おまけに高校時代は遠距離通学で苦労したので、大学のすぐ近くへ住みたいと学生部にお願いしたのが拍車をかけ、大学正門近くの私の下宿は怠慢学生の巣となり、2年時にはギリギリの単位で進級。これ以上、親に迷惑をかけまいと農家の離れの一軒家を借りて勉労に励みました。

 1年時に落とした単位をかかえ、おまけに2年時からは実験・実習のレポートが課されるため手一杯の忙しい毎日でした。私は小学生から社会人になった時も含め、この頃が一番忙しい時だったと思います。

 そうはいえ、クラブ活動は中学生時代からはまっていましたアマチュア無線のクラブへ入っていました。当時はトランジスタに代わってICが出始めた時代でした。とはいえ、貧乏学生にとってそんな最新のパーツは高嶺の花で、専ら古いテレビ、ラジオから外した真空管を使って色々な機器を作っていました。

文化サークルなので、規律も厳しくなく、上下級生の隔たりもなく、一日中、冗談の飛びかう部室でした。お腹が空いては、いつも大学近くに“小田屋”や駅近くの“三平食堂”に行っては腹一杯食べていました。なにせ、当時は500円もあれば、学生食堂を利用すればお釣りがくるという時代です。モニカ食堂のラーメン 80円、カツ丼・カツカレー 150円、一番高いA定食でも230円といった価格でした。

 4年生に無事進級し、B,Cばかりが目立つ成績表でしたが、卒業も確実という目星もついたので友人の紹介で多人数の食事付下宿に引っ越しました。確か井口の附属工業高校の寮も兼ねているところでしたが、県内外の学生、特に私と同学年の人達が多かったせいか、すぐに友人が出来て下宿でのコンパ、山陽女子や安田女子との合コン(当時はみんな合ハイといっていました。合同ハイキング)にも出させて頂きとても楽しかったです。

 数年前に当時の下宿仲間4人が広島に集い、お互いの近況そして思い出話に花が咲きました。年をとったせいか病気や入院の話も出てきます。又、卒業して社会に出てみると世の中、理不尽なことだらけ、時には体調をこわすこともあります。そんな中でも、こうして学生時代の友人と語ることは本当に有意義なことと思います。

 また、私は卒業後も佐伯区に住んでいたこともあり、五日市コイン通りで恩師と一杯やっていたこともあるのですが、数年前に鬼籍に入られ淋しい限りです。

 私はこれから三次に帰って親の介護、近所の世話役等で忙しくなると思いますが、学生生活の中で知りえた恩師、友人のことを忘れず、広島工大卒としての誇りを持って日々を過ごしたいと思います。


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